各CD評全文


エリザベス朝のリュート・バラード/佐野健二

《現代ギター》 2001年9月
16世紀エリザベス王朝期のイギリスで愛唱された旋律は、器楽の素材としても多く
扱われた。それらの作品を、関西を中心に活躍する佐野健二がリュートとオルファリオン
(リュートと同じ調弦で金属弦を使用、そのユニークな形状はジャケットをご覧いただきたい)
で演奏したアルバム。佐野の演奏はきわめて明快であり、1音1音は明瞭に発音され、
〈ハンスドン〜〉のような明るく軽快な曲では生き生きとしたリズム感で活力ある演奏を繰り広げる。
古楽器に対してこういう言い方は不適当かもしれないが、現代的でシャープな
印象を受ける。それは古楽器でないということではなく、現代おける古楽器演奏のひとつのあり方と
言えるだろう。もちろん〈ラクリメ〉などの叙情的な旋律の歌い回しも見事なもの。


《レコード芸術》2001年9月
[推薦]
佐野健二さんがリュートとオルファリオンを弾きわけて、エリザベス女王期イギリスのリュート作品を
たっぷり演奏しておられる。曲はおなじみのジョン・ダウランド(1563〜1626)の
《彼女は許してくれるか》《ウオルシンハム》などの有名曲を中心に、
心なつかしいフランシス・カッティング編曲の《グリーンスリーブス》、
トマス・ロビンスン(1589〜1609ごろ活躍)の《アルメイン》、
アンソニー・ホルボーン(?〜1602)の《ミューズの涙》などの21曲。
 佐野さんは父上が邦楽、母上が洋楽のご家庭に育たれ、イギリスのギルドホール音楽院に留学された。
ここでリュートをアンソニー・ルーリーとナイジェル・ノースに師事して、現在は関西を中心に活躍しておられる。
 この種のリュート曲の演奏はともするとメロディを追うことに終始して叙情に溺れやすく、
音楽の芯が流されがちのところを、佐野さんは作品の構成を重視して線が太く厚手、
リズム感はたしかでその上に立ってきめこまかく歌にみちた音楽を作り上げておられる。
特にダウランドの《ラクリメ》やロビンスンの《スペインふうパヴァーヌ》などに
佐野さんの持ち味が発揮されるようである。
世にゴマンとある「エリザベス朝のリュート音楽集」とは一味も二味も異なったユニークな演奏として注目したい。
 ただひとつあえてないものねだりさせていただくと、使用楽器にかんして
一般的な説明が添えられてはいるものの、もうすこし具体的なデータがほしかった。
演奏がよいだけに、どのような楽器で奏されているのかを知りたいのである。
ついでにもう一声、邦楽と洋楽のご両親が具体的に何を専門とされておられるのか、そうしてそれを
佐野さんはご自分の音楽のなかにどう受けとめておられるのか、これも知りたい。
少年時代に邦楽をたたき込まれ、その後に洋楽に向かったわたくしにとって、
邦楽と洋楽の出会いは決して他人事とは思えない問題なのである。
<皆川>

[準推薦]
佐野健二のリュートを、もうわたしは十年近く聴いているように思う。
よき伴侶ソプラノの平井満美子との共演で出したダウランドのリュート歌曲集や
イギリス民謡を集めた「スカボロ・フェア」、最近は「パーセル つかの間の音楽」などが記憶に残る。
つのだたかしや、イギリス留学時代からの友人フィールズを第二リュートで支えたり、
多くの人から評価され、信頼されてきた人柄である。
共演したCDのなかにときおり顔を覗かせるソロを除いて、この人だけのアルバムというのを、
そういえば、わたしは今まで聴いたことがなかった。
 1974年から77年までロンドンのギルドホールで、ルーリーやノースに師事して学んだ佐野は、
わが国ではこの楽器の草分けのひとりだ。
今回のアルバムは、7コース・ルネサンス・タイプのリュートと、金属弦のオーファリオンを手に、
ダウランドの《行け、わが窓より》から始まり、同じダウランドの《ラクリメ》に終わる21曲。
例の《グリーンスリーブス》ほか当時の人たちが歌ったバラードをアレンジした曲を
プログラムの軸に据えたところから「エリザベス朝のリュート・バラード」という題が付けられている。
 一音符もおろそかにしない誠実さがある。テクスチュアがよく聴き取れるだけでなく、
ひとつひとつの音の強弱、立ち上がり、微妙な音の震え、余韻にまで気を配った行き届いた演奏だ。
こまやかな動きを含む曲を聴けば、テクニックの冴えは十分にわかるのだが、
テクニックだけで見せ場を作ろうとはしない。
それより歌うことが、この人にとっては、なにより大切なことのように思える。
全体にゆったりとした構えである。今の世の中で、こうした音楽に接することができるのは、嬉しいことだ。
ただ、裏返して言うと、やや刺激に乏しく、聴き耳をそばだてさせる要素が少ないということになる。
<服部>

[録音評]
 99年12月、山梨県、牧丘町民文化ホールで録音。適度な距離感をおいてリュートが
中央に誇張のない大きさの音源を広げ、豊かな響きがもやもやしないため、その音源
の輪郭をよく聴きとれ、肉づきがよく、つややかで、張りのある美しい音色が、指が
弦をこするノイズとともに明瞭。音場感にいささかも不自然さがない。透明で純粋、
優雅な音色に耳を洗われる思いがするCDだ。〈93点〉三井



パーセル/歌曲集 平井満美子(S) 佐野健二(アーチlute、luteアティオルパート)

《レコード芸術》2000年8月
[推薦]
ソプラノの平井満美子さんとリュートの佐野健二さんが、ヘンリー・パーセル(1659〜95)の
歌曲をふんだんに聴かせてくれる。
CDのタイトルになっている、ジョン・ドライデン(163一〜1700)の『オイディプス王』による〈つかの間の音楽〉はじめ、
ダウランドに基づく〈なんて悲しい運命〉、ご存じ《ダィドーとイーニアス》から
〈私が死んだとき〉など、器楽曲もふくめて20曲をおさめている。
 平井さんの声は必ずしも透明清澄ではないにしても、それがかえってイギリス・バロックの
パーセルに似つかわしい。高音域と低音域とで音色に格段の相違のある彼女の声の特徴を意識して生かし、
パーセル特有のドラマを作りあげてゆく。
 淡々としたなかに表現の幅ひろく、あたたかくて滋味あふれた熱唱である。〈ダィドーの嘆きの歌〉の
あざやかさもさることながら、〈わが苦悩のすべて〉や〈バラよりも甘く〉などに、
彼女のよさが十二分に発揮されている。
 その平井さんを支える佐野さんのリュートの動きもまことに立派。
この楽器のために編集された〈ダウランド〉や〈シャコンヌ〉など、造形感たしかで傾聴にあたいする名演奏である。
<皆川>

[準推薦]
イギリスのオルフェオと呼ばれたパーセルの歌18曲を、ソプラノ平井満美子、
リュート佐野健二の琴瑟あい和す演奏で楽しめる。透明な美しい声に加えて、
言葉がよく歌えていることをまず称賛したい。カナをふって歌うのとは違った手応えがあり、
ことばの背後からにじみ出るわだかまる気分やかげろう気分がみごとに捕らえられている。
そのなかから匂い出るのは、パーセル特有の高貴なメランコリーだ。
 歌声を支える佐野のリュートもなかなか立派である。
幸か不幸か、パーセルはリュート・ソロの曲は残していない。
ちょっとした息抜きに彼が弾いている二曲の器楽曲も、もとはチェンバロ曲だったり、
トリオの作品だったりだが、佐野は原曲のスタイルと気分を損なわずに、ちゃんと弾いている。
それだけの腕があるから、元は弦楽の伴奏、オブリガート付き、あるいは通奏低音だけといった
いろんなスタイルの曲を、上手にリュート一本にアレンジして即興的な呼吸も交えながら、支えているのだ。
歌を誘い出すことはあっても、けっして妨げない呼吸は見事である。
 こうした声とリュートだけという、ほんとうに室内的でアンティームなパーセルが、たしかにあってもよい。
ただルネサンスのリュート歌曲とは違って、バロック的な通奏低音を前提としたパーセルの歌は、
もう少しくっきりと低音の線が浮かび出たほうが、緊張感をはらんで充実して聴こえる。
とくに同じ音型を低音でくり返すダウランドのタイプの曲がそうで、まさにそのジャンルに、
ディドの辞世の歌をはじめ名曲が多いのだ。
聴きながら、できたら、ヴィオール一本でよいから低音弦がほしいと思った。
<服部>

[録音評]
大きく広い空間を思わせる残響感に包まれ、中心よりわずかに左にソプラノ、
右後ろにリュートというサウンド・ステージ。たっぷりとした残響感は低域で膨らむこともなく、
発声やSの発音も十分なエネルギー感で聴かせ、歌詞も明瞭に聴き取れる絶妙なバランス。
ただ、この残響感は個性的で、全体を支配しているために、いくぶん単調さをのぞかせる。〈90〉石田



イングリッシュ・キャロル・ブック/愛は蘇る
 平井満美子(vo) 佐野健二(lute、オルファリオン、ベル)


《レコード芸術》1997年3月
[準推薦]
 英語によるキャロルを集めて、ソプラノの平井満美子さんが独唱している。
音楽史のうえで「イングリッシュ・キャロル」というと、狭義には、14世紀から15世紀の前半にかけて
英国で作られたラテン語と英語の混合による、単声から四声のあいだを移り動く
半ポリフォニー半ホモフォニー楽曲(必ずしもクリスマスに関係をもつとは限らない)を意味する。
 しかしここで歌われているのは、慣習的な意味での歌曲ふうの平明かつ単純なキャロル17曲である。
一九二八年出版の『オックスフォード・キャロル・ブック』から選び出された楽曲だそうで、
近代的な色彩がつよく、それだけにこのCDの音楽史レコードとしての性格はかなり薄まる。
 額縁の構えはたいして大きくなく、地味で純朴な楽曲集だが、主の御降誕を迎えた庶民の
あえかな喜びが慎ましく歌いあげられている。その心に染み入る無垢の訴えが、
平井さんの透明な美声にのせられてしっとりと流れだしてくるのである。
伴奏の佐野健二さんはリュート、オルファリオン、フィーデルなどを鮮やかに使いわけて、
時には好ましいリードぶりをみせ、心なごむアンサンブルを音楽性ゆたかにくり広げてゆく。
とくに抒情的な〈東国の三人の王〉や〈向こうの森の中に〉などに、
しみじみとした情感がこめられている。
<皆川>

[準推薦]
ソプラノの平井、リュートの佐野のコンビは、今までにもすがすがしい共感をよぶCDを出してきた。
今回の「愛は蘇る」も好ましい気持ちに聴き手をひたらせる。
ブックレットの最初に網干毅による読みやすい導入の小論があって、
イングリッシュ・キャロル・ブックの世界が目の前に開けてくる。
本来は踊ったり、行列を組ながら歌った民衆の歌で、クリスマスに歌われる曲が圧倒的に多いが、
その他の宗教的な機会に歌われる曲も含まれていることがよくわかる。
 いわば野の花のような曲の数々を、平井はノン・ヴィブラートの素直な声と素朴な表情で歌う。
それがキャロルの世界にしっとりとマッチして快い。
大向こうを唸らせるオペラの名歌手だったら、こうはいかないだろう。もっとしつこく曲を作るからだ。
佐野の伴奏も、リュート、フィーデル、オルファリオンを弾き分けて、控えめながら、
ひとつひとつの曲想に応じた、こまやかな動きを見せている。
浄らかな宗教的リリシズムにあふれた〈われら東国の三人の王〉、フィーデルのドローンの上で語るように
始められる〈ウェックスフォード・キャロル〉、世の罪を背負うために犠牲となるべき運命を担った
幼子イエスへの子守歌〈コヴェントリー・キャロル〉など、そこに見られる優しさや哀惜の念は、
民衆の中に深く根ざしたキリスト教文化の深みから沸き出したものだ。
華やかさはないが、しみじみと聴かせるCDである。
<服部>

[録音評]
 ソプラノも伴奏楽器もクリーンかつクリアに捉えながら、静かな雰囲気が曲趣に合っている。
歌を近めに捉えているが、声も、持ち換えられる楽器も自然な佇まいで、
伴奏楽器の距離感や音量感もリアル。音場感も自然。シンプルな収録手法を感じさせる。
演奏雑音が起きやすいリュートのS/Nの良さは驚異的だ。九五年十月、秩父ミューズパーク音楽堂での収録。〈95点〉



カッチーニ/アマリッリ麗し 平井満美子(S) 佐野健二(キタローネ、lute)

《レコード芸術》1993年1月
[準推薦]
  ジュリオ・カッチーニ(1550ごろ〜1618)の《新音楽》(1602、1614年)から有名な〈アマリッリ麗し〉を
はじめとして〈恵みふかい幸せな瞳よ〉〈もう戦いをやめておくれ〉など、さらにイタリアで活躍した
ドイツ出身のヨハンネス・ヒエロニムス(ジョヴァンニ・ジロラモ)・カプスベルガー(1575ごろ〜1650ごろ)による
《トッカータ》などのリュート独奏曲をとりまぜて、全部で17曲をおさめたCDである。
 演奏しているのはソプラノの平井満美子さんと、リュート、キタローネの佐野健二氏。
平井さんの声はカークビーゆずりで、しかも表情にあふれてドラマをはらみ、この種の作品にうってつけである。
これであと一つ、その声を大きな一本の流れのなかに収斂してゆけたら、もうなにも言うことはない。
そうした平井さんを夫君の佐野氏が息をあわせて支え、
文字通りに「琴瑟相和す」好ましいアンサンブルを作りあげている。
とくに興味ふかいことは〈アマリッリ麗し〉に即興風の複雑な装飾をほどこした演奏
(佐野氏執筆の解説によると、ドイツのヨハン・ナウヴァッハの1623年の曲集が典拠という)が
併せておさめられていることで、これによって当時の声楽演奏の様相が具体的に理解されるように工夫されている。
この曲の器楽編曲を対比させたCDはよく見られるにもかかわらず、声楽曲相互の対比はたいへん珍しく、
有用でありがたい企画である。
<皆川>

[準推薦]
 バロックの扉を開いたモノディア様式の歌曲集としてのカッチーニの《新音楽》(1601)ほど有名な作品はない。
このCDは《新音楽》とその続編である《新音楽第二歌曲集》(1624)の両方から
〈恵み深い幸せな瞳よ〉ほか13曲をソプラノの平井が歌ったものである。
キタローネとアーチリュートで佐野がそれを支え、プログラムの冒頭にはカプスベルガーのプレリュードを、
途中では二曲のトッカータを弾いて、精彩を添えている。
いわゆるイタリアン・ソングの一曲として広く知られる〈アマリッリ麗し〉もむろん歌われているが、
このCDで面白いのは、リコーダーやチェンバロのソロにまでアレンジされたこの名曲に、
ドイツのナウヴァッハが手を加え、ゆたかな装飾を施したいわゆるフローリッド・ソング版が
一緒に取り上げられていることだ。
 平井さんの声はきれいに澄んだ張りのある声で、微妙なイントネーションと修飾をつけながら、
歌詞を重んじて一曲一曲を丁寧に歌っている。
みずから歌い手でもあったカッチーニは《新音楽》の序文に詳細な歌唱法の指示を与えているが、
それを参照しても、なお実際に声で表現するとなると、なみなみならぬ研鑽が必要になる。
比較的単純なアリア(有節歌曲)のタイプの曲より、敢えていっそう微妙な表現が要求される通作形式の
ソロ・マドリガーレのタイプの曲を積極的に取り上げているのも、研鑽のあかしと言えよう。
もし、言うなら、高音域でやや声の質が固い。
 伴奏の佐野は三つの歌で、趣味の良い即興的な間奏を入れている。〈燃えよ、わが心〉はその一例で、
平井の装飾的唱法も、この曲はとりわけ流麗である。
<服部>

[録音評]
 1992年6月、秩父音楽堂ホールで録音。音像の輪郭はわずかにはっきりしないところがあるが、
ほぼ中央に定位するところでもよく伸びきって、つややかさやなめらかさはまったく失われない。
その右側のやや控えめな伴奏古楽器のやや地味な音色も清澄で、どちらも美しい。
初めて名を聞くホールだが、豊かな響きに不自然さをほとんど感じさせない。〈90点〉



17世紀イタリアのデュエット集 トゥー・バイ・トゥー

《レコード芸術》1992年8月
[準推薦]
 ソプラノの平井満美子さんとリュートの佐野健二さんご夫妻による共演は、たとえば
「流れよ、わが涙」(CSD12)などからも明らかなように、その息のあった好演奏でつとに定評あるところか、
海外進出とでもいうのか、ソプラノのイヴリン・タブとマイケル・フィールズの夫妻と組んで、
ソプラノ二重唱を特集している。
題して「トゥー・バイ・トゥー」、まことに結構な企画のCDである。
モンテヴェルディの《ポッベアの戴冠》の最期に歌われる、例の〈ただあなたを見つめ〉
(ただしこの二重唱をモンテヴェルディの手になるものではないとする見解もある)を終曲として、
同じくモンテヴェルディの《西風もどり》《来たれ、来たれ》《恵みふかきイエズスよ》など、
カッチーニ(1546ごろ〜1618)の《もどり来よ》、フレスコバルディ(1593〜1643)の《こちらにおいで》など、
14曲を収録している。
 これまた驚くべきすぐれた演奏である。
二人のソプラノは完全に息が合い、表情ゆたかに17世紀イタリアのデュエットを歌いあげている。
楽曲のあちらこちらにちりばめられた不協和音を効果的に生かして、歌詞の内容を恐ろしいまでに強調し、
聞く者にせまってくる。見事な演奏である。
とくにわたくしたちにとって嬉しいのは、17世紀ヨーロッパの音楽を日本人の歌手が
本場出身といわれる歌手と互角に、いや、むしろ圧倒せんばかりの力量で、充実した歌声を披露していることである。
日本の古楽演奏もここまできたのかと、ただただ感慨無量の思いである。
<皆川>

[準推薦]
 トゥー・バイ・トゥー(2×2)を名乗って、二組の夫婦が手を取り合って録音した
イタリア17世紀のデュエット集である。歌い手は、コンソート・オヴ・ミュージックのメンバーとして来日したことがある
イギリスのタブ(ソプラノ)と、日本における古楽の歌い手としてすぐれた活動を続けている平井満美子。
伴奏のリュートほかその系統のさまざまな楽器は、それぞれのご主人であるフィールズと佐野健二が担当する。
フィールズと佐野は、1974〜77年にロンドンのギルドホールで学んだ時以来の仲であり、
タブと平井は1988年に共演して以来デュオを組んでいる。
昨日今日ではない、運命の糸のようなものに結ばれた四人なのである。
 全部で14曲のうち、二人のご亭主がリュートのデュオを聞かせるピッチニーニの《トッカータ》の
タブの独唱にあてられた一曲以外はすべて二重唱で、モンテヴェルディ、ディンディア、カッチーニといった
17世紀の前半に集中した密度の濃いプログラムだ。
面白いのは、ほとんど曲をリュートの重奏で支えているということである。
二人が歌い、二人が呼吸を合わせて伴奏する。
 二人の歌い手の声の質は非常に近い。加えて、平井がタブに師事したこともあって、
このCDには、異質なもののぶつかりあいからくる熱を帯びたものではなく、
自然に色が別れて空にかかる虹をみるような美しさがある。ひとつのものの分身と言った感じさえする。
それは伴奏についても言えることで、うっかりすると一人で伴奏しているように聞こえる。
2×2の境地もここまでくると見事なものだ。
ただCDのタイトルになっている愛の二重唱《ただあなたを見つめ》などでは、
もう少し胸の内が熱くなるものが感じられてもよかったように思う。
<服部>

[録音評]
 1991年4月、福島市の音楽堂ホールで録音。二人のソプラノの距離感がやや遠めで、
しかも電気的に付加されたと思えるような残響音の不自然さも加わり、
ソプラノの音像の位置感はあまりはっきりしない。
声量が大きく盛り上がるところでエコー感が一段と不自然になるが、
人の声らしくなめらかでつややかな歌唱は美しく、にごることはほとんどない。
リュート、ギターなどの伴奏楽器の位置感もはっきりせず、音量も終始かなり控えめだが、
古雅な音色が美しい。〈87〜90点〉



スカボロ・フェア/リュート伴奏によるイギリス・フォークソング集 (廃盤)
 平井満美子(S) 佐野健二(lute)


《レコード芸術》1992年9月 新譜月評 音楽史
[準推薦]
  このCDは純粋な音楽史レコードではない。標題のように、中世やエリザベス王朝期などをふくめて、
イギリスのフォーク・ソングを16曲おさめたものである。《スカボロ・フェア》があれば、
《バーバラ・アレン》や《三羽のからす》があり、《グリーンスリーヴズ》があるといった具合に、
胸にしみいる懐かしい名旋律の数々が次から次へと歌われてゆく。
 演奏しているのは、ソプラノの平井満美子さんとリュートの佐野健二さんのカップル。
平井さんの歌声はカークビーばりに伸びがよく、しかも力づよく、表情ゆたかである。
日本に生まれ、日本で学んだ日本人声楽家がこれほどまでに異国の民謡の言葉と調べとを
完全に自家薬籠中のものにしていることは、もう奇跡的とも評すべき事がらである。
 一曲一曲が実に聞かせる。もちろん夫君佐野さんのリュートがそれを暖かくやさしく支えて、
このすばらしいCDを作りあげている。たとえば《グリーンスリーヴズ》の前奏ひとつ取ってみても、
このリュートあればこそこの歌声ありと納得させられてくる。
このCDは音楽史レコードではないが、しかし音楽を愛するすべての人々に聞かれてほしい、
心の歌をおさめた貴重な音楽のレコードである。
<皆川> 〈録音90〜93点〉



ダウランド/リュート歌曲集 平井満美子(S) 佐野健二(lute) (廃盤)

《レコード芸術》1991年2月
[準推薦]
 おなじみのジョン・ダウランド(1563〜1626)のリュート歌曲を、標題の「流れよ、わが涙」をはじめ、
ひろく知られた「私の恋人が泣くのを見た」、「もう泣くな、悲しみの泉よ」、「語れ、真実の愛よ」など15曲集めて、
二人の日本人音楽家  ソプラノ平井満美子さん、リュートの佐野健二さんが演奏している。
 お二人は関西を中心として活躍している演奏家で、かつてはダンスリー・ルネサンス合奏団のメンバーでもあった。
その後お二人ともイギリスに留学し、平井さんはカークビーにも師事したという。
なるほどカークビーその人の演奏かと思い誤るほどに柔軟で透明な声の持ち主で、
その美声によってダウランドの名旋律が切々と繰りひろげられてゆく。
それを支える佐野さんのリュートもすぐれたものである。
欲をいえば平井さんにもうひとつの隠されたふかい情感の表現があればという思いもなくはないが、
しかし装飾音の用法も適正であり、立派な出来ばえである。
 先月号のこの欄にも書いたことだが、今後の日本の声楽家はこうしたルネサンス、
バロックのジャンルに積極的に進出してゆくべきではないかと思われる。ワーグナーの作品などは
体力的にもいろいろの無理があろうが、これら古楽の分野では日本人の声質や感性が
むしろ大きくプラスに働く可能性があるからである。
事実、このミサワ・レーヴェルのCDで次々に紹介されている新久美さん、村上雅英さん、そうして今回の
平井満美子さんと、皆さん、そんじょそこらのヨーロッパやアメリカの歌手には決して劣らぬ、
いや、それ以上の好演奏を聞かせてくれているのである。
<皆川>

[準推薦]
  日本でもリュート伴奏のダウランドの歌曲集のレコードが出るようになったことに
感慨を覚えずにはいられない。以前、ピアーズが歌い、ブリームがリュートで伴奏した
イギリス・リュート歌曲の名盤に溜息をついたのは、あれはもう三十年以上前のことである。
その頃、やがて日本でも同じようなレコードが出ようとは思っても見なかった。
 ダウランドのリュート歌曲から15曲を歌うソプラノの平井満美子は、神戸女学院で声楽を修め、
イギリスでカークビーの講習を受けるなどした古楽の歌い手、リュートでそれを支える佐野健二も、
イギリスのギルドホール音楽院で古楽を学び、ノースやルーリーに師事した奏者である。
この二人のペアには本場の香りがする。
平井の声は、ノン・ヴィブラートの澄んだ声で美しく、佐野はテクニックに余裕を感じさせ、
前奏や間奏などに見せる即興的な演奏も趣味が良い。加えて、網干氏のしっかりした解説、
金沢氏による見事な対訳が付いていて、いかにも心のこもるCDという感じがする。
日本人奏者によるヨーロッパの古楽という分野に手を付けるだけでなく、
こうした心のこもるCDをリリースするミサワ・クラシックスのポリシーに賛意を表しておこう。
 ただ褒めすぎないために言っておくと、ダウランドの音楽を美しいものにしているメランコリーを
どれだけ深く歌いこむかという点から見ると、まだまだ研鑽の余地がある。
例えば《悲しみよ、とどまれ》で、幾度も繰り返される〈憐れみ〉の言葉は、
万感の思いがこもる筈だが、それがもうひとつ確かに伝わって来ない。
美しく澄んだ声で歌うだけでなく、濃やかな肌合いに血が通い、おのずから思いの滲む歌であって欲しい。
<服部>

[録音評]
 1990年4月、福岡市音楽堂で録音。第一曲のリュートのソロ曲、つづくソプラノによる歌曲の
いずれでもリュートが中央やや左寄りにやや遠めに定位、控えめだが清澄でやわらかな音色が美しく、
歌曲ではほぼ中央に登場するソプラノは音像の輪郭がやや聴きとりにくいところはあるが、
極く豊かな響きをともなってつやっぽく、肌ざわりがビロードのようになめらかで
やわらかな歌唱の美しさには魅了される。まるでソフト・フォーカスの、
色調やコントラストのやわらかな写真を見るような音場が展開され、耳あたりがたいへんこころよい。〈90〜93点〉

《COMO》1991年3月
三枝成彰 コラム「僕だけの秘曲」
 今回ご紹介するのは、音楽とは一見何の関係もないと思われる住宅メーカー・ミサワホームが出している
ユニークで、しかも質のすばらしく高いCDである。(中略)
中でも中世・ルネッサンスの古楽を中心に一昨年からリリースを開始した<心の詩・古楽>のシリーズの
5点はものすごくいい。音と音楽をちゃんとわかった人が大切につくったものだということがひしひしと感じられる。
人を取り囲む空間を美しく満たしてくれるシリーズだ。
特に「流れよ わが涙」と題されたダウランド作曲のリュート伴奏による歌曲集は、
このシリーズの白眉ともいえる名盤だ。リュートなど中世の古楽器を多彩に使い、
ヴィブラートを抑えた奥行きの深い歌唱で中世歌曲を聞かせる<ダンスリー>という合奏団のメンバーである
佐野健二のリュート、平井満美子のソプラノ。リュートの雅やかな調べに乗って流れる歌は、
この上なく美しい。こんなにすぐれたCDが、ベストセラーにならないのはとても残念だと思う。(後略)



EMCRecords  S.Lヴァイス「不実な女 L'Infidele」

《音楽現代》 2007年3月
注目盤

ここの所、邦人リュート奏者のソロ・アルバムのリリースが続いている。ドレスデンの宮廷音楽家でバッハ一家とも親交のあった
リュート奏者ヴァイスは、ライプツィヒのバッハ家を訪問し、度々、「とびきり優雅な音楽会」を催したという。
ここにはそのヴァイスのリュート作品が集められているが、短い即興演奏に続いて本編が始まるというアイデアが気が利いている。
佐野健二はソリストとして、あるいはソプラノの平井満美子とのデュオやアンサンブルの通奏低音奏者として活躍するリューティスト。
十三コース、二十四弦のジャーマン・バロック・リュートを弾いている。
<不実な女>は大英博物館所蔵の、<パルティータ>はロシアのグリンカ博物館所蔵のマニスクリプトを用いるなど
周到な学問的研究に裏付けられた演奏は、華やかなヴィルトゥオジティの魅力とは違うものの、
これまでの音楽家、研究家、製作家としての研鑽とキャリアの積み重ねを感じさせるものだ。
(那須田務)

《現代ギター》 2007年3月号
ディスクを再生すると、まず聴こえてくる低音弦の長く豊かな響きは、即興で弾かれる30秒のプレリュード。
このギターには持ち得ない余韻こそが、ギタリストをしてその演奏にまで駆り立てるリュートの魅力なのだろう。
イギリスでブリームにもレッスンを受け、モダンギターと古楽の両ジャンルに亘って活動する演奏家・佐野健二が、
13コース24弦の大型リュート、テオルボを使って2つの組曲をとりあげた。近年、録音や研究(つづりはSiliviusが正しいとの説も)に
充実を見るヴァイスの音盤に加わった新たな1枚だ。
ギター編曲でも馴染みの<不実な女>、もう1曲の6楽章30分を要する<パルティータ>は、ニ長調と表記されているが、
響きは渋く重厚なもの。快速調<クーラント><プレスト>など真に壮麗である。
(高橋望)

《Stereo》 2007年3月号
今月の優秀録音盤
佐野健二のバロック・リュートによるリュート音楽の巨匠、ヴァイスの作品集「不実な女」は、新たに創立されたEMCレコード第1弾。
収録は2006年、EMCプライベート・スタジオで、間近にリュート音像をクローズアップしたリアルなパターン。
スムーズな弦の立ち上がりから筐体の暖かい響きまで克明に綴られる。
(斎藤宏嗣)

《CDジャーナル》 2007年4月号
ヴァイスはバッハと同時代に活躍したリュートの名手。作曲家としても楽器の響きや特性を知悉した作品を残している。
佐野は長い低音弦を持つ楽器を用い、その多彩だがいくらか渋めの音楽世界をノーブルで落ち着いた響きの味わいで
キラリのときめきにつなげる。
(中野和雄)

《レコード芸術》 2007年7月号
準特選盤

[推薦]
佐野健二は、かねがねリュートおよびその親族楽器のソリスト、アンサンブル奏者、歌手への伴奏家として活躍をつづけてきたヴェテランである。ここで彼が後期ドイツ型のバロック・ルート(14コースを具える)をたずさえ、その時代のリュートの高峰S・L・ヴァイスの名作を聴かせてくれることは喜ばしい。初めに、そのかみの習慣にのっとり、短く”小手しらべ”のインプロヴィゼーションをつまびいたのち、彼はヴァイスの組曲を2つ奏する。ひとつは大英博物館所蔵の手稿から、かつて名匠ドンボワも録音していたこの世界の人気作、ソナタ(組曲)《ランフィデール》すなわち「不実な女」。次いではモスクワに所蔵される手稿の中から《パルティータ》ニ長調。どちらも趣深い作品で、楽器を知悉した者でなくては成し得ない効果---佐野健二自身が執筆するブックレット内解説に見るとおり、これはJ・S・バッハの貴重な”リュート曲”にも望まれないヴァイス独自の利点である---が、されにふところを深くしている。また、ヴァイスの諸作には、型にはまり切らないおもしろさ、良さが息づいていることも指摘されよう。佐野の音色はリュート特有のニュアンスに富んでいると同時に、常にしっかりと張りを保っており、幽玄さから曖昧さへと陥ってはしまわない。たとえ当時はすでにリュ−トの隆盛は諸国で過ぎ去っていたにしても、ヴァイスの音楽にはなおくっきりと、一時代の面影が宿っている。そのことを実際に音で味わわせてくれる、このような名手の録音を、いみじきものとして歓迎したい。
(濱田滋郎)

[準推薦]
ギタリストとして出発し、のちリュートに転じた佐野健二はソリストとしてより以上に、内外一流の歌手たちのすぐれた伴奏者として、かなりの量に及ぶCDにその名を記してきた。ときにその幾トラックかにはソロの芸も聴かせてくれたが、ここにはじめて---といってよいソロ・アルバムを世に問う。
ヴァイスの名は古楽愛好家には言うに及ばずギタリストの間にさえ旧知のものだが、その本来の姿である「バロック・リュート」による演奏がここに聴ける。奏者自身の言葉がブックレットにあるが、ギタリストがこの楽器の分野に挑戦するのはやはり難しい。永年の研究・研鑽によって得た音楽の味をここに披露して、バロック・リュートの音楽がどのようなものなのかを知らしめる姿は尊重されるが、やや録音に問題があるのか暗く、重々しい印象がまさるのはどうしたものか。
選曲も良く、有名なイ短調のソナタ(組曲)《不実な女》とニ長調の《パルティータ》が収められ、同好の士には大いに迎えられるべきだが、この楽器の渋さ、重厚さが合わせ持つはずの、華やかさ、軽妙さをおさえてしまうかの音質はいささか残念。譜面を前に聴けば奏者佐野のテクニックの確かさ、折々見せる即興的な装飾の妙も随所に聴ける好盤といえるが。
(濱田三彦)

[録音表]
線のくっきりした腰のあるサウンドによるリュートの録音である。しかし厚手の残響を適度に取り込むことによって、ドライになったり鮮鋭な硬質感を呼ぶことはない。うっかりすると演奏雑音の多い録音になってしまう点は、リュートとクラヴィコードはほぼ同難度だが、ここでは見事なSN比で収録されている。2006年8月、EMC(アーリーミュージックカンパニー)プライヴェートスタジオでの収録。
<90点>
(神崎一雄)



EMCRecords  イタリアバロック歌曲集「私の涙」

《現代ギター》 2007年7月号
リュートの佐野とソプラノの平井が主宰するアーリーミュージックカンパニー自らが発売する「不実な女」(佐野ソロNo.510参照)に続く第2弾CD。3人の作曲家によるイタリア・バロック期の歌曲7曲、およびリュート独奏で<アリアと変奏>が収録されている。ルネサンスのポリフォニー音楽は、バロック期に入るとより言葉と音楽の関係が重視され、感情の表現に主眼が置かれた音楽へと変化していった。このアルバムに聴かれる曲もたいへんドラマティックであり、詩の内容につれて大きく振幅する歌を、平井は確かな技巧と感情表出で歌い上げ、佐野の伴奏と相まって非常に劇的な音楽となっている。このような良質のアルバムを、今後も発表し続けることを期待したい。
(安倍寿史)


《音楽現代》 2007年8月号
推薦盤
数少ない古楽の歌い手として活躍している平井満美子とリュート奏者佐野健二によるイタリア・バロック歌曲。このデュオはすでにルネッサンスやバロックの歌曲のCDを多数出していて、どの作も立派な成果をあげているという。澄みきった美しいノン・ヴィブラートの声そのものの魅力に加えて、このバロック歌曲では驚くばかりの感情表現、つまり「歪んだ真珠」という喩えにふさわしい、人の心にダイレクトに届く魂の燃焼が聴き取れるのである。また、彼女の歌を支え、またあるときはこれまた豊かなニュアンスで演奏する佐野のリュートのかそけき音色。「私の涙」はバルバラ・ストロッツィ(1619〜77)の作品だが、和声や転調の激しさなどこの時期の音楽の特徴を示している。あとのフレスコバルディやカリッシミといった作曲家の作品にも多くの共感をもって歌いだされているこのCDは、声高に叫ぶことの現代のオアシスと言えるのではないだろうか。
(保延裕史)


《レコード芸術》 2007年8月号
準推薦盤


[準推薦]
ソプラノの平井満美子さんとリュートの佐野健二さんのコンビによる『イタリア初期バロック歌曲集』である。ジロラモ・フレスコバルディ(1583〜1643)、ジャコモ・カリッシミ(1605〜74)、バルバラ・ストロッツィ(1619〜64以降)の3人の歌曲作品前7曲を延々と聞かせる。とくにストロッツィの作品が5曲もあり、『ラグリメ・ミエ(私の涙)』というCDタイトルもこの女流音楽家の歌曲によっている。
ヘンリー・パーセル(1659〜95)の《ダイドーとイーニアス》中の有名な<わたしが死んだ時>にも共通する「恨み節」を中核にして、平井さんの的確な語りが悲愴感あふれる説得力を持って迫ってくる。時というのは味なもので、平井さんの声の透明感はやや後退していることを否めない面があるにしても、表現力ははるかに増大し、この好唱を生みだしている。イタリア語歌詞のすべてが平井さんによって訳出されている一事からも、言葉と音楽の読みのなみなみならぬ深さを推測させる。
大型アーチリュートと、小型のリウト・アッティオルバートを使い分ける佐野さんは楽曲の構成をしっかりおさえ、声と楽器の協調を支えてゆく。凝りに凝った作品が集められ、ちょっとやそっとの力量の演奏家では扱いかねる音楽だけに、ヴェテランのご両所によって現出される世界は、広くて大きい。
とくにカリッシミの《スコットランド女王のラメント(嘆きの歌)》という長丁場を語り歌う平井さんは、20世紀イタリアのルイージ・ダッラピッコラ(1904〜75)作曲の同じメアリー女王の嘆きに寄る《とらわれ人の歌》の大合唱に匹敵する強靭な訴えを秘めている。一方、佐野さんの独奏によるフレスコバルディの《アリアと変奏》が、これまた聞き逃せない名演奏である。
(皆川達夫)

[準推薦]
平井満美子(S)と佐野健二(アーチリュート)による、バルバラ・ストロッツィを中心とした初期バロックの作品集成。この二人による録音は、1990年代はじめから多数リリースされてきた。過度な演劇的強調に傾くことなく、リュートとその一族の楽器による伴奏という形態も手伝って、つねに一定の気品と調和を実現してきた。今回は、このふたりが、好きなときに録りたいものが録音できるようにということで、プラヴェート・スタジオにおいて、自ら設立したレーベルへの録音をはじめた2点目のディスクであり、二人による演奏としては最初のディスクにあたる。
《私の涙(ラグリメ・ミエ)》は現在以上に稀であったであろう女流作曲家ストロッツィの、恵まれた芸術的環境と彼女の独創性が刻印された代表的な作品で、大胆な和声に満ちた音楽である。平井満美子は、音楽が求めるさまざまな要素、たとえば弧を描くような大きなフレーズ、急速な装飾的パッセージ、パルランド様式などの交替を適切に織り込んだ歌唱を繰りひろげる。
オラトリオの創始者カリッシミの、《(スコットランドの)メアリー女王のラメント》は、その一部<死ぬ、正義と信頼を守るのに王冠は役に立たない>が取り出して演奏されることがあったが、ここにはカンタータ全体が収録されている。平井の歌唱は、悲劇の女王の宿命を表現するために、果敢なまでの表現を試みている。この特別な作品の全体が聴けるのもこのディスクのメリットである。
(美山良夫)

[録音評]
一般的には珍しいといえる古楽器、アーチリュートを伴奏にした、ルネサンス期のソプラノ・アルバム。残響は長めで主にソプラノに長めであり、残響付加が感じられなくもない。音量の小さめなアーチリュートもソプラノも等しく明瞭にという、ある意味では教科書的な収録と言えようが、それだけに両者クリアに収められている。2007年3月、EMCプライヴェート・スタジオにおける収録。
<90点>
(神崎一雄)

《CDジャーナル》 2007年8月号
リュートの音色はなんと心和ませるのだろうか。それを伴奏にして歌われるイタリアン・バロックのメランコリックで叙情的なうた。平井の歌唱はややこってりとした感触ながら、実に表現が豊か。「私の涙」そして大曲の「メアリー女王のラメント」が聴きもの。
(斎藤弘美)



EMCRecords  イギリスのデュエット集「イングリッシュ・デュエット」


《現代ギター》 2007年11月号
佐野と平井が主宰するアーリーミュージックカンパニーの第3弾アルバムは、16世紀イギリスに活躍した4人の作曲家の作品が取り上げられる。このアルバムで特徴的なのは収録曲のほとんどが多重録音で録られていること。佐野によるオルファリオンとリュートの二重奏や、平井の一人二重唱など、息の合った(?)演奏が聴ける。多重録音であることを感じさせない、極めて自然な流れで、イギリス・ルネサンス音楽の精華を楽しめる。特にオルファリオン(リュートと同調弦で金属弦を使用)の繊細な音色は、聴くものを自然に古雅な世界へ導いてくれる。
(寿)


《レコード芸術》 2007年12月号
準推薦盤
冒頭まず、佐野健二さんによるジョン・ジョンソン作曲の《女王のトレブル》が颯爽となり響く。すっかりいい気分になって聞きいった途端、なんとも不思議な二重唱が流れだして、ビックリ仰天。曲目表を見なおして、はじめて納得した。この二重唱は平井満美子さんがお一人で歌っておられるのである。
『イングリッシュ・デュエット』のタイトルのように、平井さんによる歌声を佐野さんのリュートとオルファリオンが支えて、16世紀の末から17世紀のはじめにかけてイングランドで活躍したトマス・モーリー(1557/8〜1602)、トマス・キャンピオン(1567〜1620)、ロバート・ジョーンズ(1597〜1615ごろ活躍)らの二重唱作品を中心に聞かせるCDである。平井さんのまっすぐで透明、節回しも真っ直ぐで自然な歌声に、さすがはカークビー直伝と感心した。
と、そこまではいいのだが、その平井さんが近代技術を駆使した多重録音によって一人二役しておられるのは、正直申して辟易させられた。もちろん演劇でも映画でも一人二役はある。だがそれは同じ人物が二つの異なった役柄の人物を演じるのであって、今回のように同一人物が同質の声と同一の歌詞で二つの声部を歌い、同じ表情で泣いたり笑ったりするのとでは、次元がまったく異なる。
今までにもフルートやヴァイオリンなどの楽器による一人二役の二重奏があったし、このCDでもリュートとオルファリオンの多重録音が聞かれる。それはまだ抵抗ないとしても、こと生身の人間の声にかんする限りは、一人二役されてみると、まるで二人のまったく同一の顔つきのクローン人間が仲よく手をつないで、同じようにほほ笑みながら近よってくるような、そんな気味のわるさが先に立つ。
それも1曲か2曲程度ならまだしも、CD収録全15曲中の4曲が器楽独奏曲、4曲が独唱曲、残りのあと7曲すべてにクローン二重唱を聞かされるのは、もはや生理的心理的な許容範囲を越えてしまう。
音楽における「声部8パート、シュティンメ)」とは、声楽と器楽とのいずれを問わず「異質なものを複数重ねあわすことによって全体の調和を作りあげる構成要素」ではないだろうか。
(皆川達夫)

[準推薦]
前作「私の涙」からそれほど間をおかないで、二人の新しい録音に接することができた。二重録音とのことだが、声質や演奏スタイルの同質性をもとめるなら、同じ音楽家が二重奏、二重唱したほうが好ましいわけだ。声と声、リュートとオルファリオンという一人二重録音のほかに、二重唱にリュート、オルファリオンという編成の多重録音も含まれている。
今回の録音曲目は、エリザベス1世のリュート奏者であったジョン・ジョンソンの作品、ロバート・ジョーンズ、トマス・キャンピオンといったリュート歌曲作曲家、そしてモーリーの作品から選ばれているが、ジョンソンの《グリーンスリーヴス》(変奏曲)などをのぞけは、小品と呼んでも差し支えない作品ばかりである。その《グリーンスリーヴス》(二重録音)では、両楽器のアンサンブルが、きわめて密度たかくおこなわれ、アーテキュレートが美しい。キャンピオンの《光の創造主》における、切々と訴えかけるような、しかし演劇的にはならず品格を失わない歌唱には、このジャンルを長年手がけてきた平井満美子ならではの出来栄えである。いつもの丁寧な音楽づくりは、ここでも揺るぎない。
(美山良夫)

[録音評]
アーリー・ミュージックに特化した同レーベルからのCD第3弾。注目されるのは多重録音を多用したアルバム構成で、ルネサンス・リュートと珍しいオルファリオンのデュエットや、ソプラノの二重唱などをつくりあげているのが興味深い。15曲中11曲がオーヴァー・ダビングという多用ぶり。どれもなかなか自然な仕上がりだが、演奏側も製作側も楽しさと同時にけっこうな努力と苦労も味わったのでは。EMCプライヴェートスタジオでの2007年8月の収録。
<90点>
(神崎一雄)

《CDジャーナル》 2007年12月号
リュート・ソングの専門家二人が設立したEMC Recordsからの3枚目。二重唱(奏)を多重録音したトラックが多いがまったく不自然さはない。ややオフ気味ながら親密な音像が、エリザベス朝の雅で生気に満ちた世界へ誘う。透明に飛翔する二重唱がとりわけ魅力的。
(友)

《音楽現代》 2008年1月号
注目盤

佐野健二と平井満美子によるリュート歌曲の三枚目。エリザベス朝の作曲家のデュエット等を収録。当盤の特徴はスタジオでの多重録音。佐野はライナーノートで、多重録音を「分身の術」と称し、各人が変奏した分身と共演する写真(佐野とサノ等)を掲載するなどして洒落ている。多重録音は非音楽的とまでは言わないが、呼吸や間合いにタイトな感じがして、正直言ってやはり息苦しい感じは否めない。とはいえ、リュートの佐野はもとより、平井もノン・ヴィブラートの涼やかな美声を聴かせて、曲の様式に適った解釈はまさにどんぴしゃ。特にキャンピヨンの《もしそんなに知りたいのなら》は言葉の襞までデリケートに表情豊かに歌いこんで心に沁みる。
(那須田務)


EMCRecords  イタリアバロック歌曲集Vol.2「アリアンナの嘆き」

《音楽現代》 2008年8月号
推薦盤

平井満美子と佐野健二によるイタリア初期バロックの歌曲集。何が原因か分からないが、この録音、両者の響きが融合せず、とくに歌においてどこか不自然で金属的な感じを覚える。それはさておき、同アルバムは構成が見事。ライモンドのリチェルカータで始まり(その後も随所にソロを挟む)、カリッシミ、ストロッツィにモンテヴェルディの《アリアンナの嘆き》で締め括るというもので、平井のソプラノは声も歌唱様式もこれらの作品に相応しく、テキストの色濃い情念を艶やかに歌い上げる。アーチリュート等を弾く佐野のソロや通奏低音はベテランの風格。とりわけ、息の合ったデュオで緩急自在かつ劇的に聴かせる《アリアンナの嘆き》がすばらしい。
(那須田務)

《レコード芸術》 2008年8月号
準推薦盤
[準推薦]
ソプラノの平井満美子さん、アーチリュートの佐野健二さんのコンビによる「イタリア・バロック歌曲集-2」である。タイトルにされたクラウディオ・モンテヴェルディ(1567〜1643)の<アリアンナの嘆き>を棹尾に飾り、ジャコモ・カリッシミ(1605〜74)の<泣け、おお泣け>や<おお思い出よ>をはじめとする独唱作品6曲を軸に、リュート独奏曲を髄所にちりばめている。
解説書に付されたイタリア語歌詞対訳が平井さんご自身によることからも明白なように、歌詞の内容を十全に生かした歌唱である。ひとつひとつの言葉を的確に語りあげ、歌詞と音楽とが完全に一体化している。とくに<アリアンナの嘆き>が秀逸で、望ましい抑制の中に絶海の孤島に捨てさられた乙女の訴えが鮮烈に歌い上げられる。
反面、カリッシミやバルバラ・ストロッツィ(1619〜64ごろ)らの作品になると、劇場をはらんだ歌詞を協調するためか、やや力みが加わって平井さんの透明な歌声が多少曇ってしまったことが惜しまれる。
佐野さんのアーチリュートによる演奏は、いつもながら手なれたもの。ジロラモ・フレスコバルディ(1583〜1643)の<トッカータとカンツォーナ>はもとより、パレストリーナ(1525ごろ〜94)の名マドリガーレ<春は野に山に>の器楽編曲に心たのしく聴きいった。なお解説文に「ローマの聖ピエトロ寺院の・・・」と記されているが、仏教用語との混用は望ましくない。
(皆川達夫)

[準推薦]
それほど間をおかずにリリースされる平井満美子(S)と佐野健二(アーチリュート)による録音だが、丁寧な音楽つくりに加えて意欲的な曲目を織り込んだプログラム構成の巧みさが今回も光っている。アルバムのタイトルであり、最後におかれたモンテヴェルディ<アリアンナの嘆き>が図抜けて有名であるとしても、それに比肩する創意をもった大曲を織り込んだ構成は、昨年発売された『私の涙/イタリア・バロック歌曲集』同様である。同じバス音型をくりかえすパッサカリア形式の形を下敷きにしたサンチェスのカンタータや、モンテヴェルディの<主を讃えよ>(ラテン語歌詞)など内容は多彩だ。声楽家にとっては、ブレスなしで一気に歌うパッセージや、ストロッツィのように装飾音型の美しい歌唱が求められるなど、音楽の要求につぎつぎ応えなくてはならない。その課題にチャレンジする姿勢は、新しい録音でも変わりない。
<アリアンナの嘆き>を含め切々と訴えかけるような歌唱における、こぼれるような美しさ、演劇的表情過多を避けた気品は、いままでの彼女のレコーディングの美質を受け継いでいる。なお"前奏・間奏曲風に"はさまれさ佐野健二の独奏は、ピエトロ・パオロ・ライモンディの作品。モンテヴェルディと同時代人というが、ほとんど知られることのない作品に光をあてた貴重な体験が可能になっている。
(美山良夫)

[録音評]
残響感は非常に豊かなのだがソプラノもアーチリュートもほぼ2本のスピーカーの中欧に固定されていて、ステレオとしての音響空間を聴かせるのではなく、音場感としての開放感は薄い。音響的なスペクトラムも低域が減衰しているため若干硬めの音になっているようだ。たっぷりとしたエコー感もやや人工的な印象があり、ふくよかな響き感とはやや異なるようだ。
<87点>

《CDジャーナル》 2008年8月号
古典的な様式感を保ちながらも深い悲しみの真情を披瀝する「アリアンナの嘆き」に強い感銘を受ける。うわべの美しさをつくろった浅薄な演奏とは次元の異なる高い境地と言ってよい。イタリア古楽の粋を極めんとする平井と佐野の研鑽に頭の下がる思いである。
(山下義彦)

銀座山野楽器本店広告より
世界でも珍しい、ルネサンス、バロック時代のリュート歌曲のスペシャリストとして活躍している、平井満美子(ソプラノ)と佐野健二(リュート)の主宰する「アーリーミュージック・カンパニー」の独自レーベル「EMC RECORDS」。良質な録音を送り出してきたそのレーベルの最新盤は「アリアンナの嘆き」。イタリア・バロック時代の歌曲をリュート伴奏で歌う注目シリーズの第2弾です。有名なモンテヴェルディの「アリアンナの嘆き」をはじめとする感情表出の激しい作品の数々を、優れた演奏で聴かせてくれます。ライモンドのリュート独奏曲を間に挟んだそのこだわりの選曲にも注目です。古楽ファンなら見逃せないアルバムです。

EMCRecords  サンティアゴ・デ・ムルシア
バロックギターによるスペイン宮廷のためのフランス舞踏曲集

《音楽現代》 2008年12月号
注目盤
サンティアゴ・デ・ムルシアは18世紀スペインのギタリスト。伴奏法の著作やダンス曲などがある。同アルバムは1714年に出版された「ギターによる伴奏の概要」に収録されたダンス音楽がバロックギターで演奏したもの。ムルシアとその著作や使用楽器については湯浅宣子氏及び演奏者自身による解説に詳しい。録音に際してはタブラチュア譜によるファクシミリを参照したという。スペインの女王マリア・ルイサのもとに届けられたフランスの最新流行のダンス音楽の、ムルシアによるスペイン・ギター風の味付けが面白い。佐野健二の演奏は正統的にして古の雅を感じさせる。バロック・ダンスやバロックギターに感心のある方に好個の一枚。
(那須田務)


《レコード芸術》 2008年12月号
準推薦盤

サンティアゴ・デ・ムルシアは、18世紀スペインの宮廷で活躍したギター音楽家である。1714年に印刷刊行された伴奏法教則本をはじめ、いくつかの筆写曲集によって、コントルダンス、ガイヤルド、メヌエット、パスピエ、パヴァーヌなどのフランスふう舞曲作品が残されている。そのデ・ムルシア作品の20曲以上ほどを、佐野健二さんは手がたいアプローチで演奏しておられる。
最初から最後まで、軽快でしかも雅びな舞曲のリズムが流れだしてくる。つまり、このCD全体が踊っているのである。それはゴヤが描いたスペインの舞踏の情景を彷彿とさせ、しかもその背後には、なにやら憂鬱と悲しみの風情がただよっている。
同工異曲の気味を否めないにしても、半音法を多用し、声部ごとの動きより、もっぱらメロディとリズムの上にくり広げられてゆく。佐野さんのバロック・ギターは、18世紀スペインなればこそ生まれえたデ・ムルシアが胸に秘した憂愁を誠実に十全に引きだしておられる。
(皆川達夫)

18世紀スペインのギター奏者で作曲家のサンティアゴ・デ・ムルシアは、バロック・ギターに感心をもっている人には親しい名前だ。彼の生涯には不明な点も多くあるものの、ギターの歴史に彼の唯一の出版物である「ギターによる伴奏の概要」(1714年)のもつ意義は大きい。この著作は、前半にギターによる通奏低音伴奏の方法、後半にフランスなどの宮廷舞踏の音楽例を含んでいる。フランスの舞踏文化流入をしめすドキュンメントであり、そこから「バロック・ギターによるスペイン宮廷のためのフランス舞踏曲集」というこのディスクのタイトルも由来している。
教則本あるいは理論的な著作の曲例は、音楽作品としてのアピールよりも説明の補助としての役割が求められている場合が多い。そのため、CDでの鑑賞を目的に録音される場合は、曲の短さを補うための反復、それも装飾を加えるほかかなりの工夫が必要となる。佐野健二はその実用音楽と鑑賞音楽との差違をふまえ、適切な補正などを加えながら演奏する。しかしいずれも短い、舞曲の名前、あるいは空想的なタイトルをもった音楽は、舞曲としての実用性も維持するように配慮される。
一方最後におかれた1曲の組曲は、舞曲のくびきから放たれ、とりわけプレリュードの即興性をもったパッセージが、他の曲ときわだった対照をしめしている。このディスクは、このようにバロック・ギターに求められた一側面をたくみに照射したものと言えよう。
(美山良夫)

[録音評]
眼前に演奏者の姿を見ながら演奏を聴く感覚の収録である。繊細なバロック・ギターを高いSN比で収録する狙いあっての、演奏に迫っての収録だろう。空気の流れのせいか、床の振動か、超低域ノイズが常に伴うのが気になる。近接したためか意図的かギターは太めのイメージでの収録だが、サウンド自体はなかなかのリアリティ。2008年7月、EMCプライヴェートスタジオでの収録。<90点>
(神崎一雄)

《CDジャーナル》 2008年12月号
デ・ムルシアは18世紀スペインで名を馳せたギタリスト。バロクk・ダンサーの湯浅宣子が当時の舞踏譜を検証して録音。要するに当時のさまざまなスタイルのダンス・ミュージックというわけだ。枯れた味わいのバロック・ギターが、優雅でしなやかな動きを表現してくれる。
(堀)

《現代ギター》 2008年12月号
18世紀スペインの傑出したギタリスト、サンチャゴ・デ・ムルシアは自らを「女王サヴォアのマリア・ルイサ・ガブリエラのギター教師」と書き残している。このCDは彼がスペイン宮廷で女王に教えかつ奏でたであろうフランス舞踏曲集から29曲を選んで、佐野健二が5コース・バロックギターで演奏している。なぜスペイン宮廷でフランス舞踏なのか?当時のヨーロッパの歴史を選曲と監修を担当したバロック・ダンサー湯浅宣子がリーフレットで興味深く述べている。聴いて心和み、読んで勉強になる、古楽好きにはお勧めの1枚と言えよう。
(spiritone)



EMC Records 「Air Anglois」

リコーダーとリュートによる イギリスのエア

《レコード芸術》 2009年1月号
推薦盤

「エール・アングロア Airs Anglois」とは、1702年から06年にかけてオランダのアムステルダムで刊行された4巻のリコーダー曲集である。その名のように17・18世紀のイギリスで活躍した音楽家たち、ヘンリー・パーセル(1659-1695)、この曲集をまとめたジョージ・ビンハム(1689/1701ごろ活躍)、モラヴィア出身のゴットフリート・フィンガー(1660ごろ-1730)らの作品を、全部で174曲収録している。
その中の21曲を選びだして、リコーダーの奥田直美さん、アーチリュートの佐野健二さんが演奏しておられる。切れよく、しかも歌心にみちた奥田さんのリコーダーは、ビンハムの《ジグ》の軽快なリズムの乗り、作者不詳の《エア・ラルゴ》の嫋々たる歌いまわし、またフィンガーの《グラウンド》の冴えた構成感など、どの面からみても出色のものがある。
その奥田さんを伴奏する佐野さんの支えがこれまた際立っていて、奥田さんのメロディをあたたかく柔らかく引きだし、積極的な生気あるリズムによってリコーダーの動きを触発しておられる。まことに見事なアンサンブルである。
全体的に同じような作品が並んでいるにもかかわらず、演奏のよさで一気に押しきってゆく。結びのフィンガー作品《チャッコーナ》が終わったところで、思わずCDにむかって拍手してしまった。
(皆川達夫)

アムステルダムで18世紀の最初の10年間のうちに相次いで出版されたリコーダーのための曲集『エール・アングロワ』全4巻のなかから約20曲を選び出して演奏した、このジャンルに関心を持つ人にとっては新しい体験の機会になる録音の登場である。エール・アングロワとは、フランス語でイギリスの歌ないしイギリスの旋律の意味で、名前のとおりロンドンを中心にイギリスで活躍した音楽家の作品をあつめた曲集である。ビンガム、フィンガーといった音楽家の作品が多く、パーセルといった著名な作曲家の手になるエアは少ない。この録音でもビンガム、フィンガーの作品でほとんどが占められている。グラウンドなど、同時代に流行した形式書法による音楽を、ここでも聴くことができる。
佐野健二のリュート(14コースのアーチリュートを使用)によるコンティヌオに支えられた奥田直美のアルト・リコーダーによる演奏は、細部の技巧に誇示や、過剰な表現や大げさな身振りを感じさせる演奏表現を排除し、テンポの維持、旋律の造形など、きわめて規範的な演奏を繰り広げる。楷書の端正さを旨とした演奏は、この曲集に含まれた音楽の原型を示していると言ってよいであろう。
(美山良夫)

[録音評]
リコーダーが前中央、アーチリュートがやや後方にという定位で、バランスも整っている。残響成分もほどよく加味されているが、空間的な広さや大きさの表現につながりにくいものがあるという印象を受けるのは、ひとつには残響成分の質によるのであろう。また、ふたつの楽器をいずれも中央にまとめているため、モノーラル的な音場空間になっているようだ。<87点>
(石田善之)


《CDジャーナル》 2009年1月号
18世紀初頭、アムステルダムで出版された「エール・アングロワ(イギリスのエア)」というリコーダー曲集から抜粋したアルバム。4人の作曲家は有名ではないが、いずれの曲も初めて聴く曲とは思えない親しみのあるメロディに満ちている。演奏もまた、楚々として美しい。(T)


《現代ギター》 2009年1月号
リコーダーとリュートにより、古い時代のイギリス音楽が奏でられる、懐かしさと素朴な響きに癒されるアルバムである。「エール・アングロワ」とはイギリスのエアのことで、歌曲、旋律という意味を持っているというが、これは1702年から1706年にかけてアムステルダムで出版されたリコーダー曲集。そのバックボーンにはイギリスとオランダの関係があり、イギリス王国と人民の激動の歴史を抜きにしては語れないが、時代と民族を超えた、凛としたイギリス音楽の美しさに改めて魅了される。奥田直美(リコーダー)と佐野健二(リュート)は英国で古楽を学んでいるが、選曲から演奏形式に至るまで真摯に音楽をみつめる姿勢が、その演奏から伝わってくる。
(朝)


《古楽情報誌アントレ》 2009年3月号
 ・・・さて、そんな彼等の演奏は、兎にも角にもハイ・センスである。奥田のリコーダーは、素朴で美しい珠玉のような旋律の数々を殊更に飾り立てることなく、だが同時に無味乾燥に陥ることもなく、まさに「中庸の美」と呼ぶに相応しい絶妙の感覚をもって、実に豊かに歌わさせ飛翔させる。正確な音程による端正な表現が、その確かな技術と相まって音楽に安定感を与えている。それに寄り添う佐野のリュートは、いかにもダウランドの伝統をひくリュート大国らしい的確な様式感に基づいており、通奏低音のリアリゼーションも自然で気が利いている。こうした秀演は、理屈を超えたイギリス・バロック特有のフィーリングが奏者のうちに熟成されていなければ不可能なものであり、彼等の演奏には確実にそれを感じさせるものがある・・・・
(神倉健)

EMC Records 「The Princesses' Pleassure」
王女たちのお気に入り


《レコード芸術》 2009年2月号
準推薦盤

スコットランド民謡<ロッホ・ローモンド>やアイルランド民謡の<ロンドンデリー・エア>、フランスのクロダン・ド・セルミジ(1490ごろ〜1562)作曲の<花咲く日々に>など、わが国でもひろく愛唱されているメロディを集めて、ソプラノの平井満美子さんが歌い、佐野健二さんがビウエラ、ルエンサンス・リュート、オルファリオン、アーチリュートなどを取りかえひき替えして伴奏しておられる。さらに佐野さんによるビウエラ独奏曲<イタリアン・グラウンド>などが加わって、全部で13曲が演奏される。
今回のCDの特徴のひとつは村上佳子さんのイラストにあるようで、CD盤面のみならず解説書の各頁に、兎の王女たちの童画が描かれている。「The Princesses' Pleasure」というタイトルから察しても、要はお子様方へのクリスマス・プレゼントということであろうか。
平井さんの歌声はいつもながらに透明かつ純粋、それでいて想いいれたっぷりと表情ゆたかな歌いまわし。支える佐野さんの伴奏がビシッときまって、好ましいアンサンブルを作り出している。
しかしイラスト入りも結構なことだが、英語やフランス語による原歌詞だけで日本語の対訳がなく、おまけに作曲者の名前まで明治されていないのは、たいへんに困る。
「さような下々の瑣末事を王女様方はお気にかけられませぬ」とばかりに訳詞も作曲者名も不要というのであれば、あまりにも不親切にすぎよう。第一、イラストに魅せられたお子様方が英語やフランス語の歌詞を理解できるのだろうか。
(皆川達夫)

これまで精力的にレコーディングをおこなってきた平井満美子と佐野健二による新録音は、村上佳子のイラストをあしらった小冊子と歌詞の原文(英語、フランス語)が付されているのが特徴。選曲は、人々に膾炙している作品、たとえば<ロンドンデリー・エア>があるかと思えば、フランス・ルネサンスのシャンソン<花咲く日々に>(セルミジ作曲)が置かれるといったように、ジャンルは異なるが有名作品揃いである。
もっともロンサールの詩による<恋人よばらの花を見に行こう>は、有名なコストレ作曲の音楽とは大変異なる作品である。作曲者が唯一示されたカッチーニ作とされる<アヴェ・マリア>が、カッチーニの作品目録にはないのも周知の事実。しかしそうした詮索よりもこのディスクが目指しているのは、音楽と挿絵による夢見るような時間の創出。幼い子供へのクリスマス・シーズンのプレゼントとして「音楽による空想の王国」を楽しんでほしいというのが製作者の意図である。
(美山良夫)

[録音評]
右手側のリュートと中央やや後方のソプラノを自然なバランスで収録。どちらも柔らかく刺激の少ない音だが、リュートの音色と余韻は細部まで丁寧に引き出しているし、低音弦の響きも深い。ソプラノは強めの残響を加えることで宮廷を連想させる雰囲気を作り出しているのだろうが、ステレオ・イメージをあと一歩前に出し、リュートと自然に溶け合う一体感のある響きを引き出したい。<89点>
(山之内正)


《音楽現代》 2009年2月号
推薦盤

佐野健二と平井満美子の新譜。ヴィウエラ、ルネサンス・リュート、オルファリオン、アーチリュートの伴奏でフランスのルネサンスのシャンソンや宮廷歌曲、イギリスのバラードやイタリアの旋律が歌われる。時代も地域も幅広いが、村上佳子によるフルカラーのイラスト(うさぎやきつね)とともに、架空の王国における宮廷の奏楽のひと時へと誘う。カッチーニの<アヴェ・マリア>が真作かはともかく、<ロンドン・デリーの歌>や<花咲く日々に生きる限り>等、どれもが親しみやすい名曲ばかりなので、クラシック、ポップス等ジャンルを超えて楽しめるアルバムになっている。いつもの人工的な響きの録音ながら、二人の芸術は確実に深化している。
(那須田務)

《CDジャーナル》 2009年2月号
可愛らしいジャケ写とは裏腹に真摯で気品ある演奏が聞こえてくる。ルネサンスからバロックにかけての仏英伊のさまざまな歌を収録。中にはロンドンデリーなどポピュラーな曲もあるが、ルネサンス・リュートなどの古楽器を駆使した音響が夢のような世界へと誘う。
(弘)

《モストリー・クラシック》 2009年4月号
生来の暖かみに溢れた美しさをもつ歌声。
古楽好きに広く知られたデュオの最新盤。ルネサンスからバロックにかけての、リュート等の伴奏で歌われる英・仏・伊の歌の選集。声種を記さず、あえて「歌」とする平井の歌声は、発音や発生ともにトラッド系の雰囲気を活かし、生来の暖かみに溢れた美しさをもつ。多声で聴く機会の多いシャンソン「花咲く日々に」などはまさに心が洗われるよう。イラストレーターとのコラボ、楽曲解説を排したアルバム作りは、彼らの音楽に相応しい。
(安田和信)

《現代ギター》 2009年3月号
佐野健二&平井満美子の新盤は、イラストレーター村上佳子とのコラボレーション。「とある王国」の王女たちと宮廷楽士による音楽旅行記に仕立てられている。平井のソプラノはよく伸びる澄んだ歌声で昔日のトレブルを見事に再現しており、佐野はリュート、ビウェラ、オルファリオン、アーチリュートを駆使した伴奏で応える。熟達したアンサンブルは可愛い動物絵本と相俟って箱庭のような世界を形成し、収録曲も有名曲ぞろいで聴きやすい。ただデザイン重視のためか曲目解説と日本語訳詞が割愛されているのが残念。なお<アヴェ・マリア>はカッチーニ作品ではないとの説が有力であるが・・。
(ダリ)


EMC Records 「Se l'aura spira」
そよ風吹けば



《音楽現代》 2009年10月号
推薦盤

長年リュート歌曲を演奏してきた平井と佐野が、イタリア初期バロックの歌曲を収録した。ルネサンスからバロックにかけてカッチーニやフレスコバルディ、カリッシミ、ロッシらによって作曲された14曲が収録されている。佐野がここで弾いている楽器はリウトアテオルバートとキタローネ。とりわけリウトアテオルバートの柔らかな音色が快く、《そよ風吹けば》など有節風な素朴な味わいの歌によく馴染む。ソプラノはオペラ的な歌唱とは違った、焦点の絞れた硬質な声を特徴とするが、フレージングにより一層の余裕があればもっと魅力が増すに違いない。しかし、息の合ったアンサンブルによって実現される歌詞の言葉に対応した繊細な表現はすばらしい。
(那須田務)

《レコード芸術》 2009年10月号
準推薦盤
おなじみの平井満美子さんと佐野健二さんのコンビによる『イタリア・バロック歌曲集』第3巻である。ジローラモ・フレスコバルディ(1583〜1643)の《そよ風吹けば》にはじまり、ジュリオ・カッチーニ(1545ごろ〜1618)の《泉に野に》、ジジズモンド・ディンディア(1582〜1629)の《やさしくしておくれ、私の涙よ》、ジャコモ・カリッシミ(1605〜74)の《わが愛する人よ、これは何》などと、初期バロック・イタリア歌曲をたっぷり集めている。
ソプラノの平井さんのいつもながらの歌声は、この時代の作品にふさわしい風姿で飛翔し、それを佐野さんのリウト・アティオルバートとキタローネが的確に支えてゆく。
解説書に記された歌詞対訳のすべてが平井さんご自身によるというように、イタリア語の理解、読みのふかさは格別である。その歌声にかつてに純度をとり戻していただきたいという望蜀めいた思いもなくはないにせよ、鮮やかな歌いまわしが光る。
声楽作品のあいだを縫って佐野さんによる水際だった器楽独奏が加わるのも、いつもながらの構成。地味なこの『イタリア・バロック歌曲集』の企画を誠実に息長く実現しておられることに敬意を表したい。
(皆川達夫)

2007年に自らのレーベルを設立して以来、それ以前にもまして積極的にレコーディングを行っているように見受けられる平井満美子(S)と佐野健二(キタローネほか)によるシリーズ『イタリア・バロック歌曲集』の第3集。フレスコバルディ、カッチーニ、ディンディア、カリッシミと、このジャンルに関心のあるファンにとっては馴染みの作曲家によるモノディー歌曲が12曲、それにカプスベルガーの作品が2曲、キタローネ独奏で歌の間に挟まれている。
せいぜい3分程度の短い歌曲、類型化しやすい歌詞の内容から、演奏はともすればステロタイプ化しやすい。平井満美子のアプローチは、あえて劇的な表情を歌詞内容などを頼りに導きだし誇張して表現する道を選ばない。それでなくても、カッチーニにくらべればカリッシミははるかに装飾的パッセージをもとめており、音楽そのものに語らせようとしている。曲は、有節形式の作品が多いが、そのなかで繊細な変化を繰り返しごとにもとめたりする作品を選ぶなど、この面でも作品自体を聴かせようとする、一方、最後に置かれたロッシ《嫉妬》だけは、オペラの一場面のような劇的な音楽であり、ここではそれまでとは異なったドラマティックな歌唱をおこなう。初期バロックのイタリアの声楽の広がりと魅力を堪能できる一枚だ。
(美山良夫)

[録音評]
2009年6月、EMCプライヴェート・スタジオでの録音。ここは平井さんと佐野さんがいつでも自由に録音できるようにと作ったスタジオ、従ってプロデュース、エンジニアリングもすべておふたりで行っている。音は豊かな残響を伴うものだが、残念ながらそれによる空間の広さは感じられない。特に音量の大きいはずの声のパートよりむしろリュートのほうに残響が感じられるのが不自然だ。<88点>
(峰尾昌男)

《CDジャーナル》 2009年10月号
初期バロックの歌曲を躍動感あふれる演奏で堪能できる新録音。二種類のリュートを弾き分ける佐野健二の伴奏が特筆すべき出来栄えだ。平井満美子は声こそ透明感が幾分薄れたが、劇的描写力にはいっそう磨きがかかり、歌詞に即した感情の綾が見事に表現される
(彦)



EMC Records 「Dowland's Melancholy」
偉大なるリュート奏者の生涯


《CDジャーナル》 2011年11月号
ルネサンスからバロック初期に活躍、現代人にも通じるメランコリーに満ちた作風で知られるダウランド。歌曲とリュート作品を収め、工夫された選曲と丁寧な作りのブックレットで、彼の生涯をコンパクトに辿れるアルバムだ。演奏は質朴ながら共感にあふれたもの。
(友)

《Mostly Classic》 2011年12月号
趣向を凝らしたダウランドへの愛情滲み出る演奏
1600年前後のイングランドを代表する音楽家の一人、ジョン・ダウランドの演奏で定評のあるこのコンビ。本盤はダウランドの生涯を解説で辿りながら、折々の作品、あるいは作曲家の当時の心境を代弁するような作品(エアとリュート独奏曲)を聴かせていくという趣向を凝らした内容となっている。親密な空間での演奏を彷彿とさせる録音によって、ダウランドへの深い愛情と理解が滲み出るような演奏を聴くことができる。
(安田和信)

《音楽現代》 2011年12月号
注目盤

「偉大なるリュート奏者の生涯」という副題が付いている。ジョン・ダウランド(1563-1626)は、リュートと独唱あるいは合唱のための歌曲集を生涯に四つ残している。彼の女王エリザベスT世への敬慕はよく知られており、また女王没後、ジェイムズ国王の時に王室リュート奏者に就任したことも史実だが、彼がどのような生活を送ったかなど不明な点が多い。このCDでは彼の若い時代から晩年までの作品十一曲が取り上げられている。デュオとして既に多くの演奏を重ねている平井と佐野のコンビネーションは素晴らしく、往時の響きを蘇らせ、さらに現代の聴き手に新鮮な感動を与えるだろう。心の平安を求める方に最適のCDである。(保延裕史)

《レコード芸術》 2011年12月号
準推薦盤

16世紀末から17世紀初頭にかけて活躍したイギリスのジョン・ダウランド(1563-1626)のリュート歌曲と独奏曲、計11曲を収録したCDである。<目覚めよ愛><来たれ、重い眠り>といった有名歌曲とともに、<しばし休んでおくれ><力強き神よ>のように沈潜した憂愁を歌い上げる曲がすくなからず収められている。
この種の突きつめた表現の作品を演奏するとなると、ただ美声を頼りに歌いとばすことは出来ず、それなりの年齢と人生経験を必要とする。平井満美子さんの独唱は、まさにその境地にいたっておられる。たとえば<時の長子として>や<時は静止して><愛と運命に裏切られ>などの語りの見事さは、若い歌い手には到底及びもつかない世界である。佐野健二さんのリュートがそれをあたたかくカヴァーして、好ましい瞑想的な思惟の時がつくり出されている。
<時の長子として>の歌詞が教えるように「時」は恵みであって、「加齢は安楽となる」。しかし反面「時」は残酷で、若さや純粋でしなやかな弾みを奪い去ってゆく。その両者のバランスの取り方が必要とされよう。
<デンマーク王のガイヤルド>や<常にダウランド、常に悲しく>など、佐野さんのリュート独奏も堂に入ったもので、ダウランドの憂愁を繊細な節まわしであざやかに活かしておられる。さらに解説書がきちんと作られていることも特記しておきたい。
英国王室の音楽家になる望みを叶えられなかったリュート奏者ダウランドの生涯をたどりながら、また彼が順次出版した曲集ごとの特徴や魅力を平易に説明しつつ、独奏曲とリュート歌曲を11曲演奏している。演奏者たちはダウランドにメランコリー(憂愁)を見いだし、実際選ばれた歌曲はこうした感情に関連づけられるテキストをもっている。一方、独奏曲にはガリアードやパヴァーヌといった舞曲が含まれる。一枚のディスクとそれに付された解説により、ダウランドの人と作品、個性について感得できるような配慮がなされている。
<デンマーク王のガリアード>などの著名な作品を多く含む選曲の魅力もあるが、平井満美子と佐野健二両氏による演奏は、目指すところを完全に共有しているにちがいないものである。ひとつひとつの音符やフレーズを慈しむように、丁寧に引きだされた音たち。人によっては、いくぶん規範的にすぎるように感じるかもしれないほどの解釈。最近のダウランド演奏では規制の観念にあえて挑戦した例も散見されただけに、むしろ王道をゆくアプローチというべきであろう。最後に置かれた曲は「来たれ、真の死の写しなる深き眠りよ」と歌い始められる名曲<来たれ、深き眠り>。曲もむろんだが、長くのばされた声とその余韻、内省的なリュート演奏、それらに通底する親密さなど、天に召された身内に捧げられた(英文解説末尾)このディスクを閉じるのにふさわしい。

[録音評]
2011年7、8月の録音。歌は短めの残響を伴ってセンターに定位。リュートは少し左寄りから聞こえてくる。両方とてもクリアなのだが、歌とリュートの残響の残り方に差があり、どうしてもリュートの方が前寄りに聞こえてしまう。さらに歌がほとんどモノなのも気になる。もう少し両方とも広がりをもって聞こえてくるとよいのだがと思うがどうだろうか。 (89点)

《現代ギター》 2011年12月号
すでに10数枚を数える平井の歌と佐野のリュートによるデュオ・アルバムの、今回はルネサンス・リュート音楽の最高峰ダウランドの作品集。リュート独奏も4曲含まれ<いつもダウランド〜>では佐野による反復セクションが追加作成されている。アルバム・タイトルが示すようにダウランドのメランコリックな部分に焦点をあてた選曲となっており、その生涯と作品解説をリンクさせたジャケット解説は秀逸。少し低め(A=405)に調律されたリュートのたっぷりとした響きと、ヴィブラート少なめで歌われる歌声、そしてダウランドの作品が持つメランコリーの三者が相まって、アルバムの中に憂愁に満ちた独自の小宇宙が拡がる。


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